FILE.8 岸田ひろ実さん 株式会社ミライロ ユニバーサルマナー講師
息子は障がい者、自身も障がい者、最愛の夫とは死別……。「過酷な運命」にあったからこそ 辿り着けた笑顔の秘密

“ちがいを ちからに 変える街。渋谷区”
その渋谷区の中で、障がいがありながらも、
仕事や家庭生活などの様々なステージで、日々真剣に生きている人たちがいる。
「MY LIFE,MY SHIBUYA」は、そんな人々の日常を描き出すノンフィクション。
今回ご登場いただくのはユニバーサルマナー講師の岸田ひろ実さん。
ダウン症の長男の誕生、夫の突然死、
そして病気の後遺症で自身も下半身麻痺となったこと――。
通常の人であれば心が折れてしまいそうな
過酷な運命に直面しながらも、
なぜ、彼女は、未来に希望を見出し続けられたのでしょうか。
その理由を伺いました。
・・・・・

「日本では今、三人に一人は移動や外出に不自由を感じている、と言われているんです」

熱い眼差しでそう語るのは、岸田ひろ実さん。彼女は現在、ユニバーサルマナー講師というユニークな肩書きで活動している。自分とは異なる立場や状況にある人々に向き合い、互いに理解するためのこころづかい=ユニバーサルマナーの意義と意味を説く毎日だ。

「私は車いすユーザーですが、移動のときはさまざまなバリアに直面します。とはいえ、道路の段差をなくしたり、すべての建物にエレベーターをつくったりすることは簡単ではありませんよね。でもたった一人、手を貸してくれる誰かがいれば、目の前のバリアを超えられる。そんな一人ひとりの行動や意識こそが、大切なのです」

岸田さんが講師として所属しているのは、長女の奈美さんが大学時代に友人たちと創業した株式会社ミライロだ。ミライロは、障がいを価値に変える「バリアバリュー」という理念を掲げ、企業や行政に対して高齢者や障がい者、LGBTなど多様な立場からの提言を行うほか、適切な接客・対応を行うための研修を行なっている。

「一人の力でハードは変えられない。でもハートは変えられる。一人ひとりのハートが変われば、いずれ世の中も変わっていく。私はそう信じているんです」

そんな思いに突き動かされるように、岸田さんは障がいの当事者としての気づきや自身の体験を語り続けている。講演数は年間180本以上に及び、2014年には世界的にも有名なスピーチイベント「TEDx」にも登壇した。

ミライロの本社がある大阪と、渋谷にある東京支社の近辺を行き来するだけでなく、講演や研修で国内外を飛び回る多忙な日々。その姿はポジティブなオーラに溢れ、行動はパワフルそのものだ。しかし、そんな岸田さんにも、かつては絶望のどん底でもがいた日々があった。

ダウン症の息子が教えてくれた、大切なこと。


明るい笑顔が印象的な岸田さん。
溌剌とした語り口で、人を安心させ、元気を与える独特なオーラをまとっている。
     


最初の試練は、27歳で長男を出産したときに訪れた。長女・奈美さんの誕生から4年後、生まれてきた長男の良太さんに、ダウン症という障がいがあることがわかったときだ。

「当時はダウン症についてほとんど知識がなく、医師から告知されたときはショックで目の前が真っ白になりました」

しかし、子育てをしていくうちにあることに気づいた。それは、障がいのない娘の奈美さんを育てていたときと、その大変さにほとんど違いはないということ。

「もちろん、障がいのある良太には、同年代の子どもたちと同じようにできないことはあります。でも時間をかけて覚えれば、少しずつ『できること」が増えていきました」

はっきりとは話せなくても、教えればしっかりと挨拶ができた。ほうきの使い方を教えれば、みんなと掃除もできるようになった。「ただ、育て方の方法や種類が違うだけだったんです」と岸田さんは言う。絶望は、やがて希望に変わっていった。

岸田さんの長男の良太さんは今、23歳。2歳から保育園に通い、地元の小・中学校に通った。
2歳から良太さんとともに成長した地元の友人たちは、良太さんを「障がい者」とは見ない。
彼の拙い言葉の発音でも意味を理解し、コミュニケーションを取ることができるという。

     


「ダウン症と告知された時に感じた絶望は、私の頭がつくりだした想像上の産物だった、と今は思います。“障がいがある=大変、かわいそう”という私自身の思い込みが、最悪の未来を予感させていただけだったんですね」

いつも笑顔で明るい性格の良太さんは、小学生になると周りから「キッシー」と呼ばれ、たくさんの友人もできた。ゆっくりと、しかし着実に成長を重ねる良太さんの姿に「多くのことを教えてもらった」と岸田さんは言う。

「良太には、小さな目標でもできることを積み重ねていく大切さを教えてもらいました。その小さな達成感は、次にやりたいことを教えてくれる。それが人を前に進ませる力になっていくんです」

「一生歩くことはできない」──度重なる試練


良太さんの成長を見守りながら、家族とともに幸せな日々を送っていた岸田さんに、再び新たな試練が降りかかる。2005年、夫の浩二さんが突発性の心筋梗塞を起こし、帰らぬ人となったのだ。享年39。自ら立ち上げた建築設計会社が、軌道に乗り始めた矢先の出来事だった。

何の心の準備もないまま突然最愛の夫を失い、「悲しみのどん底に突き落とされた気がした」と岸田さん。しかし、悲しんでばかりはいられなかった。当時、長女の奈美さんは14歳、良太さんはまだ9歳。「子どもたちには、もう私しかいない」。岸田さんは大きな喪失感を胸の奥にしまい込み、外に出て働き始めた。

家族を守らなければならない、という責任感で、
子育ても、家事も、仕事にも手を抜けず日夜睡眠時間を削ったと語る岸田さん。
しかし、この時出会った整骨院での仕事の経験は大きな財産となり、
障がいを負ってのち、セラピストを目指す土台にもなった。

     


職場は、近所にできたばかりの整骨院。岸田さんは整体の施術を学びながら、訪れる人々の心身を癒す仕事に充実感を覚えていた。ところが、またしても彼女に3度目の試練が訪れる。今度は彼女自身を、突然の病が襲ったのだ。2008年、夫の死からわずか3年後のことだった。

医師から告げられた病名は「大動脈解離」。激しい胸の痛みとともに心臓の血管が破れ、剥がれていく病気だ。発症後の致死率は50%にも達する。幸いにも一命は取り止めたものの、彼女を待っていたのは下半身麻痺という現実だった。

「手術の後遺症で、胸から下の神経が完全に麻痺してしまったんですね。『もう一生、自分の足で歩くことはできない』という医師の言葉を、深い闇に落ちていくような気持ちで聞いていました」

日が傾き始め、見舞い客が帰りはじめる午後4時過ぎ。身動きできないベッドの上でひとり、薄闇に包まれていく病室を眺めていると、どうしようもない悲しみに襲われた。

「こんな体で生きている意味なんてあるんだろうか、いっそ死んでしまえたらどれだけ楽だろうか。そんな思いが頭をかすめるほど、あの時は絶望に打ちひしがれていましたね」

思わずこぼれた弱音と、娘の一言が人生を変えた。



岸田さんは講演や研修のため月の3分の1は東京におり、
株式会社ミライロの東京支社にも顔を出す。
     


リハビリを含む入院生活は、じつに2年間に及んだ。ベッドの上でのまともに動けない生活。岸田さんは毎晩のように涙で枕を濡らしながらも、人前では努めて明るく振舞っていた。

「とくに娘(奈美さん)の前では『大丈夫、大丈夫』と言って、絶対に弱音を吐きませんでした。3年前にパパを亡くして、それだけでも十分辛いのに、これ以上悲しい思いをさせられないじゃないですか。だから死にたいくらい辛い気持ちを、誰にも言えなかったんです」

入院から半年が経った頃、車椅子に乗れるほどに回復した岸田さんに、初めての外出許可がおりた。そんな彼女に、娘の奈美さんは「車椅子でお出かけしよう」と提案した。久しぶりの外の世界に心は踊ったが、車椅子での外出は想像以上に困難の連続だった。

街は、自分の足で歩いていたときには気づかなかった段差や階段、車椅子の通れない通路や店舗であふれていた。早足で行き交う人の波に、何度となくぶつかりそうになった。「気づけば『すみません、すみません』と呪文のように繰り返している自分がいた」と岸田さんは振り返る。

「やっと車椅子で入れるお店を見つけて席につくと、突然ずっとこらえていた感情があふれてきたんです。そこで初めて『もう無理』と、本音が出てしまった」

岸田さんは、奈美さんに「もう死にたい」と言って泣き崩れた。しかし、目の前の奈美さんは驚くほど冷静だった。

「ママ、死にたいなら死んでもいいよ」

パスタを食べながら奈美さんが返した言葉は、予想もしない一言だった。

絶望の中にいる人に寄りそうためには


仕事のスケジュールを確認する岸田さんと、娘の奈美さん。
奈美さんは現在、株式会社ミライロの広報部部長として活躍している。
     


「娘には『死なないで』と泣かれるだろうと思っていたので、すんなり肯定されて拍子抜けしてしまいました。でも、その一言で驚くほど心が軽くなったんです。頑張らなくてもいい、と弱気を許されたことで、八方塞がりだった現実に光が見えたというか、選択肢が与えられた気がしたんです。そうしたら、不思議と生きる力が湧いてきたんですね」

当時、娘の奈美さんはどのような思いで母にそんな言葉をかけたのだろう。インタビューに同席したご本人にその真意をたずねると、こんな答えが返ってきた。

「私はずっと、一番近くで母を見守ってきました。そして、母が、本当に限界まで頑張っていることも知っていました。だからこそ、自分の足で歩ける元気な他人が『大丈夫』『頑張れ』と言ったところで、母の救いにはならないこともわかっていました」

奈美さんは「もちろん、誰よりもお母さんには生きていてほしいと思っていた」と回想する。

「絶望の中にいる人に、どうしたら思いを届けられるのか。そのためには、自分も同じぐらい辛い立場から言葉を伝えるべきだ、と思ったんです。私にとっての絶望は、母がいなくなってしまうこと。だから『死にたい』という母の思いを受け入れたんです。私も、その絶望を引き受ける覚悟がある。それぐらい大切に思っているということを、伝えたかったんです」

そんな奈美さんの強い覚悟に導かれ、岸田さんの絶望は再び希望へと変わっていった。「歩けなくなった自分には何ができるだろう」。そんな自問自答の末にたどり着いた答えは、「同じように苦しむ人の力になりたい」という強い思いだった。

人生のどん底にいる時、遠慮せず、身近な人に自分自身の
辛い気持ちを伝えるのは、マイナス思考を断ち切るため大切なことだという。
「『言っても理解されない』『気を使わせてしまう』
という恐れや遠慮は、過去の経験からくる思い込みがほとんどなんです」
     


岸田さんは病床で心理学の勉強を始めた。退院後は、以前勤めていた整骨院で心理セラピストとしての活動をスタートした。辛く長い夜が、ようやく明けようとしていた。

誰もが前向きに生きられる社会を目指して


心理セラピストとして働きはじめ2年ほど経った頃、岸田さんは娘の奈美さんに誘われてミライロに入社し、ユニバーサルマナー講師としての活動を始めた。今年で6年になる。彼女の今の目標は、国籍や年齢、性別、障がいの有無を超えたユニバーサルな他者との向き合い方を、ひとりでも多くの人々に伝えることだ。

「日本では、障がい者に対する接し方が“特別扱い”か“無関心”のどちらかになってしまうんです」

岸田さんは今の日本の現状をそう指摘する。たしかに自分と異なる状況にある人々に寄り添うことは、想像以上に難しい。しかし岸田さんは、「障がいがある人には何かをしてあげなければ、と気負う必要はない」と力を込める。

「もし困っている人がいたら、『何か手伝えることはありますか?』と尋ねてほしいんです。必要なこと、求めていることは、人それぞれ違います。大切なのは、その人の気持ちにしっかりと向き合うこと。日常の可能性や選択肢を広げてあげることなんです」

最近はユニバーサルマナーだけでなく、さまざまな人の前で自身の体験をシェアする機会も増えた。「どんな困難に直面しても、生きていれば必ず希望が見つかる。どん底からも絶対に抜け出せる」。彼女の経験に裏打ちされた強いメッセージは、生きる力を失いそうな人々に、希望を与え続けている。

誰もが生きづらさを感じることなく、前向きに生きられる社会をつくりたい──。インタビューの最後、静かにそう語った岸田さん。時計の針は、間もなく午後4時を指そうとしていた。窓から差し込むやわらかな西日が、岸田さんを包んでいる。その笑顔は、生き生きとした未来への希望にあふれていた。

<プロフィール>
きしだ・ひろみ/1968年生まれ、大阪府出身。知的障がいのある長男の出産、夫の突然死を経験した後、2008年に自身も大動脈解離で倒れる。一命を取り留めるが、後遺症により下半身麻痺となる。約2年に及ぶリハビリ生活を乗り越えて2011年、娘が創業メンバーを務める株式会社ミライロに入社。自分の視点や経験をヒントに変え、社会に伝えることを願い、講師として活動を開始。「ユニバーサルマナー」の指導や障害のある子どもの子育てなどについて年間180回以上の講演を行う。2014年、世界的なスピーチイベント「TEDx」に登壇し、注目を集める。米国ハワイやミャンマーでも講演を行うなど、その活動は海外にも広がっている。2017年には初の著書『ママ、死にたいなら死んでもいいよ』を上梓。一般社団法人日本ユニバーサルマナー協会理事。

(制作:SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS,LLC / 文=庄司里紗 / 写真=松本昇大)