FILE.13 寺田ユースケさん YouTuber
挑戦し続けることでたどり着いた場所。「寺田家TV – サイボーグパパ」が見せる家族の姿。(前編)

“ちがいを ちからに 変える街。渋谷区”
その渋谷区の中で、障がいがありながらも、
仕事や家庭生活などのさまざまなステージで、日々真剣に生きている人たちがいる。
「MY LIFE, MY SHIBUYA」は、そんな人々の日常を描き出すノンフィクション。
今回ご登場いただくのは、YouTubeチャンネル「寺田家TV – サイボーグパパ」の
出演・運営を行う寺田ユースケさん。寺田さんはYouTuberとしての活動にとどまらず、
渋谷区に本社を構える株式会社CAMPFIREでの勤務や、障がい者のための
プロジェクトに多数参画するなど、幅広い活動を展開している。
たくさんの挑戦をしてきた寺田さんは、それと同時に、数多くの挫折や
苦しみを味わってもきた。そんなときに寺田さんを救ってくれたのは、
多くのかけがえのない人たちとの出会いであり、
「障がいがある人たちを励ましたい」という強い思いだった。
そんな寺田さんに、さまざまなお話を伺った。

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元車いす芸人にして元車いすホスト。車いすヒッチハイカーとして活動していた経験もある寺田ユースケさんは、「サイボーグパパ」として人気YouTubeチャンネル「寺田家TV – サイボーグパパ」を運営している。多彩で異色のキャリアを持つ寺田さんはいかにしてサイボーグパパとして歩み始めたのか。その軌跡を追った。

明るい野球少年が直面した障がい者野球の現実


「寺田家へようこそ! サイボーグパパ、ユースケです。」

軽快なオープニングで、毎回、YouTubeチャンネル「寺田家TV – サイボーグパパ」はスタートする。チャンネル登録者数はすでに10万人超。装着型サイボーグHAL®*を身に着け、サイボーグパパとして活動する寺田さんは、いまや押しも押されもしない人気YouTuberだ。

生まれつき脳性麻痺でスムーズに歩くことができない寺田さんは、人生のさまざまな場面で自分ができること、やりたいことを模索しては行動し、困難に直面しながらも前へ前へと進んできた。そんな寺田さんは幼い頃をこう振り返る。

「小さい頃は障がいをあまりネガティブに感じていませんでした。もともと運動神経も良かったですし、中学生まではずっと健常者に混じって野球をやっていました。一塁まではなんとかたどり着いて、そこから代走を出してもらっていました」

元気いっぱいの明るい野球少年はその後、挫折を余儀なくされた。高校でも野球部に入ったが、練習についていけない。戦力外通告を受けて軟式の障がい者野球に転じ、大学でも障がい者野球チームに所属して練習を重ねた。しかし、そこで障がい者野球の現実を知り、野球から離れる決意をした。

※装着型サイボーグHAL®:体に装着することによって、装着者の身体機能を改善・補助してくれる機器。

小学生の頃から始めた野球は、中学生までは障がいのことも気にせずに打ち込んだ。
しかし、高校から大学まで続けた障がい者野球で実情を知り、野球をやめることを決めた。


「パラスポーツの場合、障がいの程度によってみんなが試合に出られるようになっていますが、障がい者野球はそうじゃない。レギュラーで4番バッターになるような人は、グローブをはめる側の手をけがしたけれど、もともとは健常者で甲子園出場経験もあって、普通にランニングができるような人たちでした。障がいはあるけれど走れないわけではない。世界大会の試合を見ると、走れない人や車いすの人はスタメンに一人もいませんでした。そうか、僕は障がい者野球にも求められていなんだなと感じました」

車いすは自分にとっての革命だった


野球をやめた寺田さんは、ギャンブルに明け暮れた。失意、悲観、絶望。何をやればいいのか分からない。もがく日々から寺田さんが抜け出すきっかけは車いすだった。

「実は『車いす=障がい者』というイメージを持っていたので、それまでずっと車いすに乗ることを避けていたんです。野球をやめた僕を心配した両親に勧められ、車いすに乗ってみたら、こんなに速く移動できるんだともうビックリですよ。『かぼちゃの馬車』だと思いました。それまでは5歩10歩進むだけで汗が出て、キャンパス内を移動するのに30分かかることもありましたから。車いすに乗ったことは、僕にとっては『革命』でした」

革命後の寺田さんは一変した。ゴミ屋敷に近かった部屋も片付き、身だしなみにも気を遣うようになり、友達も大勢できた。出かけることが楽しくなった寺田さんの行動範囲は、やがて英国へと広がっていく。

「周りは就職活動を始めていましたが、僕は高校と大学1年の時間をほぼ無駄に過ごしていたので、ほかの応募者と比べて際立ったところがない。でも、英語ができるようになれば、社会人として活躍できる人材になれるのではないかと思ったんです。英語が1ミリも話せない状態でしたが、イギリス・オックスフォードにある語学学校に留学しました」

車いすを乗り始めた頃に、ロンドンへの語学留学を行なっている。滞在時にちょうど
ロンドンオリンピックが開催しており、会場まで車いすで観戦に。
     

しかし、留学生活は思い描いていた英語漬けの日々とはまったく違っていた。寮で同室だったスペイン人は同郷の友人を部屋に招き、スペイン語で話す。夜な夜な部屋で繰り広げられるパーティーに危機感を募らせた寺田さんは“脱獄”を図った。

「このままだと英語は絶対にうまくならない。その環境から抜け出そうと、車いすで地元を散策していたときに見つけたのがパブです。ローカルのおじさんたちが毎晩集まっているパブに毎日午後5時ぐらいから出かけ、オレンジジュース1杯で深夜の2時3時までその人たちと話をしていました」

つたないながらも英語で客と会話を交わし、得意の手品を披露したり、ボードゲームに興じたりしていると、あっという間に時間が過ぎていく。気が付けば寺田さんの英語力は格段に向上していた。

「語学学校で英語を話すと、先生から『なんで酔っ払ったような英語を話すんだ』と言われましたが(笑)、いい思い出です。そのとき仲良くなったおじさんとはいまでも交流がありますよ」

車いす芸人を志したものの……


留学中、寺田さんのその後の進路を決定付ける番組との出会いがあった。英国の人気コメディーTV「Mr.ビーン」だ。障がいをネタとして取り上げ、笑いを取っている番組を見て、笑いには障がい者への偏見をなくす力があるかもしれないと寺田さんは考えた。

「ブラックジョークではあるんですが、番組自体、すごく面白い。こういう番組が日本でもあったらいいのに。そう思って、帰国後、お笑い芸人の養成所に入りました」

2012年から3年間。上京した寺田さんはお笑い芸人としての修行を積んだ。だが、結論から言えば、その努力は実を結んではいない。両親の助言もあって、寺田さんは3年で見切りをつけた。

「すべては僕の実力不足。そもそも面白くしゃべることができなかったんです。お笑い芸人には異次元のトーク力が求められます。障がいというネタは、料理でいうと特殊調理素材。ふぐの肝みたいなもので、プロでなければおいしく仕上げられない。僕がそれをうまく調理できる未来が、当時は見えなかったんです」

憧れだったお笑い芸人の道にも挫折した。この先、何をしていこう。悩む寺田さんに友人がアドバイスとして、こう勧めてくれた。

「車いすでホストをやってみては?」

唐突な提案に寺田さんはたじろいだ。一度は「できません」と断ってもいる。だが、結局はアドバイスに従い、歌舞伎町にあるホストクラブの面接を受けに行った。結果は合格。早速、車いすホストとして働き始めた。

「歌舞伎町には怖いイメージがあったので、最初は、自分には絶対に無理だと思いました。最終的にホストになろうと決意したのは、この縁はなにか意味があると後先考えずに踏み出したことと、ホストの皆さんが“意外”にもすごく優しい方々だったからです」

店で付けられた寺田さんの源氏名は「クララ」。「アルプスの少女ハイジ」に登場する車いすの少女の名前から取ったネーミングだ。この道を選んだ以上はナンバー1を目指そう。お酒の飲めない、終電で帰るホストとして働き始めた寺田さんは、そこで自分の中にあった偏見と差別意識に直面することになる。(後編に続く

<プロフィール>
てらだ・ゆうすけ/1990年生まれ、愛知県出身。YouTuberとして、YouTubeチャンネル「寺田家TV – サイボーグパパ」を運営。生まれつきの脳性麻痺により足が不自由だが、小学校から軟式野球を始め、高校・大学では障がい者野球も経験する。20歳のときに車いすと出会い、大学在学中のイギリス留学で障がいを笑いに変えていることに感銘を受け、帰国後、お笑い芸人に。その後、車いすホストも経験(Smappa! Group APiTS勤務)。2017年からは、友人たちと「HELPUSH」という車いすヒッチハイクの旅を開始。現在はYouTuberをはじめ、株式会社CAMPFIREに勤務したり障がいがある人たちに向けたプログラムなどに参加したりと、幅広い活動を展開している。

(制作:SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS, LLC / 文=三田村蕗子 / 写真提供=UUUM株式会社)