FILE.7 大日方邦子さん
日本障害者スキー連盟理事、渋谷区教育委員
“互いの違いを認め合う社会へ”
伝説のチェアスキーヤーがセカンドキャリアの中でしたためた
私たちへの「メッセージ」。

“ちがいを ちからに 変える街。渋谷区”
その渋谷区の中で、障がいがありながらも、
仕事や家庭生活などの様々なステージで、日々真剣に生きている人たちがいる。
「MY LIFE,MY SHIBUYA」は、そんな人々の日常を描き出すノンフィクション。
今回は、日本におけるチェアスキーの第一人者で、
パラリンピック日本代表としても活躍された
大日方邦子さんにご登場いただきます。
長年トップアスリートとして活躍してきた彼女は、
これまでどのように障がいと向き合い、
どのように人生を切り拓いてきたのでしょうか。
これまであまり語られることのなかった、
肩書きの向こう側にある、一人の人間の素顔に迫ります。
・・・・・

「現役時代は、それこそずっと雪山にいました。雪山にしかいなかった、という方が正しいですね。だから今も、やっぱり雪山が恋しくなるんです」

元チェアスキー日本代表の大日方邦子さんは、白銀の世界を懐かしむようにそう話す。

冬季パラリンピックで二度の金メダリストに輝いた大日方さん。獲得したメダル数は、日本人最多となる10個に上る。まさに、日本のパラスポーツ界を牽引してきたレジェンドと言える存在だ。

ニコニコと明るい表情を見せる大日方さん。
その朗らかな人柄は、
講演や取材を通じて全国の人々を魅了する
     


2010年に現役を退いた後は、企業に所属しながら、日本パラリンピック委員会をはじめとするさまざまな組織で要職に就く。2018年3月に開催された平昌パラリンピックでは、女性として初めて日本選手団団長を務めた。現在は、全国で講演活動を行うほか、渋谷区教育委員会の委員としても活躍するなど、ますます多忙な日々を送っている。

「私は好奇心が旺盛で、興味を持ったら“まずはやってみる”タイプ。机の前でじっとしていることはあまりないですね。今の活動は、バラバラに見えるかもしれないけれど、自分の中ではぜんぶ一つの線でつながっている。その起点は、やはり幼い日の原体験にあると思うんです」

やりたいことを尊重し、サポートしてくれた両親


大日方さんの「原体験」とは、3歳のときに遭遇した交通事故に端を発している。彼女はその事故で、右足を失った。」

大日方さんが教育委員を務める渋谷区役所仮庁舎の外壁には、
渋谷で生活をする障がい者と学生が協働してデザインした
「シブヤフォント」を使った文字が描かれている
     


左足にも深刻な傷を負い、2年以上、家族と離れての入院生活を余儀なくされたという。

「幼かったので、私自身に事故の記憶はほとんどないんです。むしろ、大変だったのは両親だと思います。今になって思えば、両親にはどれだけ辛く厳しい日々だっただろう、と。それでも私をしっかりと支え、ここまで育ててくれたことには、感謝の気持ちで一杯です」

病院に運び込まれたときは命も危ぶまれる状態だったという大日方さん。しかし、幸運が重なり、奇跡的に一命をとりとめた。母親はそんな彼女に「この世に生かされた意味」について、幼い頃から説き続けていたという。

「母はいつも『あなたにしかできない役割があるはずだから、それを探して生きていきなさい』と、言い続けていました。だからこそ、その役割が何かを常に問いながら生きてきました。今の私があるのは、そんな母の言葉の影響が大きいですね」

一方、両親は足に障がいを負った彼女を特別扱いしなかった。小学校は普通学級に通わせ、彼女がやりたいことはできる限り尊重し、応援してくれた。「あなたは足が悪いんだからやめなさい、と言われたことは一度もない」と大日方さんは回想する。
「私はやんちゃだったので、親としては心配したり、ハラハラしたこともあったと思うんです。でも両親は、どんな時も私を否定せず、見守ってくれました。そんな両親からは、障がいがあるからといって全てを諦める必要はないということを教わった気がします」

「障がい者らしくない」と、いじめられた中学時代

こうした原体験を通じて、大日方さんは、やりたいことは何があってもやり遂げる意志の強さを身につけていった。ところが、物怖じせず、さまざまなことにチャレンジする彼女の姿勢は、人間関係で裏目に出ることもあった。

「中学時代、いじめにあったんです。その理由は、一言で言えば『障がい者のくせに障がい者らしくしないから』。障がい者は弱々しくてかわいそうな存在であるべき、という考え方が、当時はまだ強かったんですね」

そんなときは、やはり母親が支えてくれた。母親は、学校で何が起きたのか、あなたはそれをどう思ったのか、と心情を汲むように細部まで話を聞いてくれた。

渋谷区教育委員の会議室。
向かって左手前が大日方さんのデスク
           


「母と話をしていると、モヤモヤした感情が心の中で整理されて、気持ちをリセットできたんですね。母はいつも日記をつけていて、体験や感情を咀嚼して言語化することをとても大切にする人でした」

自分の思いを言葉にすることで「私は私のままでいい、と思えた」と大日方さん。だからこそ、障がい者にレッテルを貼り、“障がい者らしい”振る舞いを求めてくるような社会には強い違和感を覚えるという。

「私にとって、義足や車椅子は個性の一つ。義足を履くのも、皆さんが靴下を履くのと同じように、ごく自然なことなんです。障がいがあってもなくても、同じ一人の人間であることに変わりはありません。誰もが、それぞれの個性を活かして、自分らしく生きられること。それが一番大切なことじゃないですか」

高校に入ってチェアスキーに出会い、競技スキーの世界に入ってからは、なおさらその思いが強くなっていった。「スポーツをしているときは、いちばん自分らしくいられる」。そう話す大日方さんは、スキーに全力で打ち込んだ時代をこう振り返る。

「競技の世界では、今の自分にできることとできないことは何か、とことん向き合わなければなりません。非常にシビアな世界である反面、目標やゴールははっきりしている。達成すべき目標がクリアになると、やるべきことの優先順位も明確になりますよね。そうなれば、周りの声に気を取られたり、心を惑わされたりすることがなくなる。何と言うか、心が解放されるんです」

就職、結婚、そして……

大学入学とともに始まった競技生活。1994年の冬季パラリンピック・リレハンメル大会から、2010年のバンクーバー大会後に引退するまでの間には、就職や結婚、転職などプライベートでもさまざまな変化を経験した。

既成概念にとらわれない、柔軟な意思決定を大切にしていると話す。
スポーツ、仕事、夢、家族。一つひとつの出来事に
真正面から向き合い続けた彼女の言葉には、
経験に裏打ちされた力強さがある
          


大学卒業後は、NHKに入局。ディレクターとして主に教育番組の制作に携わった。多忙なマスコミの仕事とアスリートとしての生活を両立させながら、2001年には結婚。仕事と競技、そして家庭。求められるものがそれぞれ異なる3つの環境で、大日方さんはどうやって役割を果たしてきたのだろう。

「すべてを完璧にやろうとすると、どうしたって無理がありますよね。だからそのあたりはゆるっと構えて、その都度ベストなバランスを考えて動いていました。たとえば、2007年にはテレビ局の仕事に限界を感じて、柔軟な働き方ができる今の職場に転職しました。夫婦の関係も同じで、できる方ができることをやる、という考え方ですね。食事の支度も、最近はほぼ夫が担当してくれています。結婚当初は私がつくっていたんですが、生活を続けるうちに『僕がつくる方がいいよね』と。今や台所の実権は完全に夫の手中にあります(笑)」

フリーランスの編集者である夫とは、当初、事実婚を選んだ。長く使ってきた「大日方」の名を変えずに、競技生活を続けたかったからだ。夫はすんなり受け入れ、引退まで夫婦別姓で過ごした。

しかし、そんな大日方さん夫婦にも、入籍するきっかけが訪れる。
「私たち、子どもが欲しかったんです。でもなかなか授からず、現役を引退した直後から不妊治療に踏み切りました。ところが法的な婚姻関係にないと、準備する書類が増えたりと、煩雑な手続きが必要だとわかったんです」

夫婦で話し合った結果、夫が大日方さんの籍に入ることで無事、入籍に至ったそうだ。大日方さんは「既成概念にとらわれないという意味では、夫の方がしなやかな発想の持ち主なんです」と笑う。

「夫はこうあるべき、とか、妻はこうするべき、という感覚が、あまりないんですよね。結婚後も、私に合わせて雪山にこもって、トレーニングに付き合ってくれました。夫婦の形に正解はなくて、それぞれに合った形を見つければいい。そういう考え方が、彼とはすごく一致しているんです」

バスや電車は、周りに気を遣い過ぎてしまうため、
移動には自動車を使っているという。
多様性を認め合う社会の実現には、
思いやりや心の余裕がまだまだ足りていない
          


数年間、治療を試みた大日方さん夫婦だったが、なかなか子どもは授からなかった。治療には、時間も体力も、精神的なエネルギーも使う。大日方さんは夫とじっくり話し合い、ある時「ここまでにしよう」と区切りをつける決心をしたという。

「子どもを授かることはゴールではなく、むしろ、そこからがスタートなんですよね。だけど、このままだとスタート地点がまるでゴールであるかのように、体力や時間を使わざるを得なくなってしまう。子どもを授かるのは素晴らしいことだけれど、今ある生活を大切にする生き方も、同じように素晴らしい。私たちはそういう生き方をしていこう、と決めたんです」

「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」

現役時代、スキーと仕事の両立についてはよく考えていたが、女性として結婚・妊娠・出産をどうするかについては「ほとんど考えたことがなかった」と、大日方さん。だからこそ「女性たちには、ライフイベントとキャリアの両立について、早いうちから考えてほしい」と話す。

「結婚をするかしないか、子どもを持つか持たないか。女性は非常にシビアな選択を迫られます。そこに絶対の正解はなく、だからこそ悩み、迷うわけです。大切なのは、自分で決めること。自分がとことん考えて出した答えなら、どんな結果でも受け入れることができる。そして次のステージに向かって、前向きに生きていけると思うんです」
「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」という言葉がある。これはドイツ出身の医師で、パラリンピックの礎を築いたとされるルートヴィヒ・グットマン博士の言葉だが、大日方さんの「決断」を支える。

「私がパラアスリートとして活躍することができたのは、失った右足ではなく、残されたものを最大限に生かしたからこその結果だったと思うんです。失ったものではなく、今あるものを大切にすること。過去ではなく、今という瞬間と、この先の未来に目を向けること。これは障がいのある人たちだけではなく、全ての人にも言えること。今の自分にできることは何か。それを最大限、活かせることは何か。そんな問いに一つひとつ向き合っていけば、自ずと進むべき道は見えてくるはずです」

最近は、そんな思いを講演で伝える機会も増えてきた。多くの企業や学校などから声がかかり、聴衆も大人から子どもまで様々だ。しかし、大日方さんが伝えたいことは一つ。「違いを認め合うために、まずは自分を大切にしてほしい」ということだ。

「自分自身を世界で唯一無二の存在だと認め、大切にすること。つまり、他人と違う自分を認め、慈しむことが大事なんです。それは同時に、相手の違いを認めることにもなります。世の中には自分と異なる生き方や個性があふれている。それが当たり前。だからこそ社会は面白いし、素晴らしい。みんなと同じでなければダメなんて、息苦しいじゃないですか。私たちは、もっと自由でいい。そういう一人ひとりの寛容さが、誰もが暮らしやすい社会をつくっていく。私はそう信じているんです」

<プロフィール>
おびなた・くにこ / 1972年生まれ、東京都出身。3歳の時に交通事故で右足を切断、左足を負傷。高校2年の時にチェアスキーを始める。1992年、中央大学法学部入学。1994年、冬季パラリンピック・リレハンメル大会(滑降5位)。1996年、NHK入局。1998年、長野大会で冬季パラリンピック日本人初の金メダルを獲得(滑降・金/スーパー大回転・銀/大回転・銅メダル)。2006年、トリノ大会で二つ目の金メダル獲得(大回転・金/滑降/スーパー大回転・銀メダル)。2007年、NHKを退職し、(株)電通パブリックリレーションズに入社。2010年のバンクーバー大会では5大会連続出場を果たし、2つの銅メダルを獲得。同年9月、日本代表チームからの引退を表明。2017年、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程 修了。現在は、日本パラリンピック委員会(JPC)運営委員、日本障害者スキー連盟理事のほか、渋谷区教育委員などを務める。

(制作:SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS,LLC / 文=庄司里紗 / 写真=松本昇大)