FILE.4 郡山祐亮さん 株式会社ビームス 事業企画本部CRM推進部
「ポジティブマインドで憧れの職業に就いたビジネスパーソン」

“インクルージョン” という言葉を聞いたことがあるだろうか。
インクルージョンとは、もともと「包み込む」という意味を持つ言葉で、
福祉の領域では「障がいの有無にかかわらず、誰もが受け入れられる社会づくり」として理解されている。

しかし、日本ではまだ障がいがある人々が生きづらさや暮らしにくさを感じる場面も多いのが現状だ。
そんな中、仕事の上でも、プライベートにおいても、周囲とバリアのない良好な関係を築いている人がいる。
株式会社ビームス事業企画本部CRM推進部の郡山祐亮さん(40)だ。

ごく自然に、インクルージョンを体現しているように見える郡山さん。
いったい彼は、どうやってそのような環境を実現したのか。
彼の人生の歩みから紐解いてみた。
・・・・・


「じつは僕、自分に障がいがあることを、ふだんは忘れているんですよ」

これまでどのように障がいを乗り越えてきましたか――? そんな問いに対する郡山祐亮さん(40)の答えは予想外だった。彼はこれまでの記憶を手繰り寄せるように、少し間を置いてからこう続けた。

「僕は、家族や友人たちに恵まれているんでしょうね。おかげで、障がいをほとんど意識せずに生きてこられた。だから僕には、障がいを”乗り越えた”という感覚がないのかもしれません」

そんな彼のてらいのない本音の中には、私たちの社会のあるべき姿のヒントが詰まっている。

「誰よりもアクティブでポジティブな社員」

郡山さんは現在、渋谷区に本社があるアパレル大手・株式会社ビームスで顧客管理を担当している。日々の業務は、メールマガジンの配信や顧客データ解析などのデスクワークが中心だ。

郡山さんには、股関節の骨に異常が起きる先天性の障がいがある。そのため歩行が困難で、ゆっくりとしか移動できない。重いものを持ったり、走ったりすることも難しい。しかし、その点を除けば、郡山さんは他の誰よりもアクティブでパワフルだ。

新たに完成したオフィスで
仕事に精を出す郡山さん。
表情は真剣そのもの
     

「体を動かすことが好きで、今は自転車にはまっています。通勤も武蔵小杉の自宅から原宿のオフィスまで毎日、自転車で通っているんですよ」

そう言って笑う郡山さんについて、同僚たちは「ポジティブの塊みたいな人」と口をそろえる。取材に同席した宣伝広報統括本部の山村香代子さんも「彼ほど前向きでポジティブ思考の人は見たことがない」と太鼓判を押す。オフィスでの同僚たちとのやりとりからは、彼がここに必要とされ、受け入れられている様子がひしひしと伝わってくる。そこには「障がい」がバリアではない風景が広がっていた。

「やりたい仕事ができて、僕を理解してくれる家族や友人にも恵まれている。それって、本当に幸せなことだなと思います」

変形性股関節症と2回の手術と母親の存在

郡山さんは1977年、鹿児島県湧水町に生まれた。霧島山のふもとに位置する、人口1万人あまりの小さな町だ。彼はそこで豊かな自然に囲まれながら、元気にすくすくと育っていった。

しかし両親は、彼の足の異変にかなり早い段階で気付いていた。発達の遅れを心配した両親は、彼を連れていくつもの病院を回ったが、歩き始めたばかりの彼に確定的な診断はなかなかつかなかった。

「変形性股関節症」という病名が判明したとき、彼は3歳になっていた。変形性股関節症とは、股関節の骨に変形などが生じ、立位の保持や歩行が困難になる進行性の病気だ。根治は難しいが、足の機能をできるだけ温存するため、成長に合わせて外科的な手術を行うケースが多い。郡山さんもこれまで2度の手術を経験している。

郡山さんの病気「変形性股関節症」は
立位の保持や歩行が困難になる進行性の病気である
     

「最初の手術は小学校に入る前、2回目は小学校高学年のときでした。鹿児島には手術できる病院がなく、福岡と大阪の大きな病院まで行って手術を受けました。入院中の約3ヶ月間、母はつきっきりで看病してくれました。今思えば、まだ小さな妹もいたし、母は本当に大変だったと思います」

それでも「両親が悲観的になっている姿は見たことがない」と郡山さんは振り返る。実際、郡山家はいつも明るく、笑顔が絶えない家庭だったという。

「できないことより、
できることに気持ちを向けなさい」

そんな両親が、幼い頃からいつも彼に言い聞かせていた言葉がある。

「人間にはそれぞれ『できること』と『できないこと』がある。だから『できないこと』ではなく『できること』に気持ちを向けなさい、と。ずっとそう言われ続けていました。気丈に生きなさい、人生楽あれば苦ありなんだから、と」

そのせいか、彼は一度も自らの障がいをネガティブに捉えたことがない。もちろん、物心がついた頃から「自分はみんなと違う」ということに、なんとなく気付いてはいた。しかし、それは彼にとって「嫌なこと」や「辛いこと」ではなかった。「自分はみんなと違う」。ただそれだけのことだった。

彼が足の障がいを初めて「嫌なこと」と感じたのは、小学校の中学年になった頃だった。走ろうと思ってもうまく走れない。マラソンをすれば一人だけ遅れてしまう。野球をすればヒットを打っても一塁に間に合わない。そのどうしようもない事実に「割り切れない思いがあった」と郡山さんは言う。

郡山さんは取材中、常時ニコニコしていた。
両親の影響が大きいという
     

「僕の家族はみんなスポーツ好きで、父は野球、母はバレーボール、妹は陸上をやっていました。当然、僕もそういう『本気のスポーツ』をやってみたいと思うじゃないですか。でも障がいがある僕にはできない。いちばん身近な家族の共通の趣味に、自分だけ参加できないのは、やはり悔しかったですね」

とくに嫌だったのは、小学校の運動会だ。運動会の種目には、必ず徒競走がある。走ることが苦手な郡山さんにとって、足の速さを競う競技は苦痛でしかなかったからだ。

「でも両親は、嫌がる僕に『出ろ』と言って引きませんでした。『うまく走れなくてもいい。でも全力で走ってこい。やり遂げれば、必ず得るものがあるはずだから』と。僕の足のことを誰よりも知っているはずなのに、容赦ないですよね(笑)」

郡山さんは両親の教えに従い、徒競走やマラソンにも頑張って参加しつづけた。彼は「出ろって言うわりには、ゴールしてもたいして褒めてくれないんですよ」と笑うが、両親から得た学びは大きかったと力を込める。

「人生で壁にぶつかったときの向き合い方を学んだ気がします。うまくやるのではなく、できることを精一杯やることで道が開ける、という考え方は、今でも僕の生き方の基本になっています。僕が今、障がいを一切ネガティブに感じることなく生きていられるのは、両親のそんな教えがあったからかもしれません」

障がい者こそ、笑顔と挨拶を

郡山さんには、足の障がいのことでからかわれたり、いじめられたりした記憶もない。小学校から高校まで、もちろん社会人になってからも「一度も経験がない」と言い切る。

「学校ではクラスメートはもちろん、他のクラスの同級生から上級生、下級生まで、みんな僕を助けてくれました。重い荷物を持っていたら『持つよ』と自然に手を貸してくれる。ゆっくりとしか歩けない僕の歩調に、当たり前のように合わせてくれる。みんな障がいを当たり前のことのように受け入れ、僕とふつうに接してくれた。だから僕もいっしょになってふざけたり、遊んだり、将来の話をしたり、ふつうの青春を過ごすことができた」

物心ついたときから一度も
「障がいがあることをネガティブにとらえたことはない」
という郡山さん。
持ち前の明るい性格が、彼の周りに人を呼び寄せた
     

そんな彼に転機といえる出来事が訪れたのは、18歳の頃だ。大学に入学した彼は、生まれて初めて親元を離れ、一人暮らしをする必要があった。両親は心から応援してくれたが、郡山さんは不安で仕方がなかったという。

「それまでは親が学校まで送迎してくれたり、ふだんの生活でも何かとサポートをしてくれていたけど、一人暮らしではそうもいかない。障がいのある自分でもうまくやっていけるだろうか。地元の友人たちのように、自分を受け入れてくれる友人はいるだろうか……と、心配事ばかりでした」

そこで郡山さんが取った行動は、意外にも「積極的になること」だった。とにかく、自分から歩み寄り、語りかける。人の輪に入っていく。その結果、福岡でも多くの友人に恵まれることができたという。

「この経験で、笑顔と挨拶の大切さを痛感しましたね。障がいがあるからといって、気後れして閉じこもっていては、誰も近づいてきてはくれない。だからこそ笑顔と挨拶を絶やさずに、自分から周りに近づいていく。自分を理解してもらうためには、障がいを持つ側からはたらきかけることが大事なんだと気づきました」

「あのビームスで働けるかもしれない」

一方、将来については模索の日々が続いていた。授業にどうしても関心が持てず、大学を中退。しばらくは友人たちを訪ね歩き、自分の人生を見つめ直しながらときを過ごした。その後、地元の雑貨店で働き始める。20代半ばには、結婚をして家庭も持った。でも、彼にはまだ、諦められない昔からの夢があった。

「10歳代の頃、親しくしていた先輩がとてもおしゃれな人で、彼の影響でファッションやインテリアが大好きになりました。その後、東京でスタイリストになった先輩の姿を見て、いつかは自分も東京で仕事をしたいと考えていました。その思いをどうしても叶えたくて、20歳代のうちに思い切って東京に出ることにしたんです」

上京した郡山さんは、2年ほど都内のインテリアショップのスタッフとして働いた。その後、インターネット広告の代理店に転職。営業職としてがむしゃらに働く日々が続いた。

「営業の仕事は、正直かなりハードでした。足のことがあるのに、無理して毎日歩き回ったせいで腰を痛め、仕事を続けられなくなってしまったんです。やはり、どんなに頑張ってもできないことはある。そう再認識した出来事でした」

ビームス新オフィスの窓からは、
「竹下通り」を眼下に見ることができる。
なかなか珍しい風景だ
     

しかし彼は、そこで偶然にもビームスが中途採用を募集していることを知る。「あのビームスで働けるかもしれない」。そう思った郡山さんは、一も二もなく行動する。書類審査と面接を経て、無事に採用が決まったのは2008年。郡山さんは30歳になっていた。

入社後に配属されたのは、WEBサイトやメルマガの運用を行うWEB制作課だった。「当時はHTMLもフォトショップも何も知らなくて、先輩たちの助けを借りながら独学で学んだ」と郡山さん。30歳代で妻と幼い子供たちを抱え、ゼロから新しい挑戦を始めることに、躊躇はなかったのだろうか?

「そうですね……。それよりも、10歳代の頃に雑誌の中で見た憧れのブランドで働ける喜びの方が大きかったですね。それにビームスには、僕以外にも障がいを持つ社員がたくさんいるんです。同僚たちも理解があるし、障がいがある社員でも、さまざまなことにチャレンジさせてくれる風土がある。入社して10年目になりますが、ここで働くことができて、本当によかったと思っています」

「障がい者でもファッションの仕事はできる」と伝えたい

そんな郡山さんには、ささやかな夢があるという。それは「ファッション業界で働く障がい者のロールモデルになること」だ。

「障がいを持つ人たちの中には、ファッションの仕事がしたいけれど、障がいがコンプレックスになって諦めてしまっている人が大勢いるかもしれない。だから僕は、ビームスの社員として働くことで、多くの人に『障がい者だってファッション業界の仕事はできるよ』と伝えたいんです。ファッションが大好きな障がい者がやりたい仕事に就くためのロールモデルというか、方法論みたいなものを示していけたら、と思っています」

「できないことよりできることに気持ちを向けて」。
それが、郡山さんの両親の教育方針だった
     

これまで持ち前のポジティブ思考で人生を切り開いて来た郡山さん。本人は「楽観的すぎるのも、それはそれで問題なんですよ」と言って笑うが、もちろんそれは彼が不安や悩みと無縁であるというわけではない。進行していく病気のこと、妻や3人の子どもたちの将来のこと、鹿児島に残して来た両親のこと。ふっと不安や迷いが心を過ぎる瞬間は少なくない。そんなとき、彼には足を運ぶ場所がある。

「仕事を終えた帰り道、自転車で遠回りして、東京タワーを見に行くんです。なんと言うか、東京タワーってやっぱり東京の象徴なんですよね。だからここに来ると、原点に帰れるような気がするんです。何があっても東京で頑張っていく、と誓って上京した時の気持ちを、思い出させてくれる場所なんです」

東京タワーを見上げながら、今日も郡山さんは気丈に生きる。「できないことより、できることを精一杯に」。そう信じる彼の前に、道はいつも開かれている。

<プロフィール>
こおりやま・ゆうすけ / 1977年生まれ。鹿児島県出身。3歳のときに変形性股関節症と診断される。大学中退後、地元・鹿児島の雑貨店に勤務。2004年、東京に拠点を移す。都内のインテリアショップやインターネット広告代理店などに勤務した後、08年に株式会社ビームス入社。ウェブ制作課を経て、現在は顧客管理を担当するCRM推進部に所属。妻と3人の子どもたちの5人家族。趣味は自転車と料理。

(制作:SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS,LLC / 文=庄司里紗 / 写真=松本昇大)