FILE.5 あいおいニッセイ同和損害保険株式会社 石橋元気さん
「自分で自分を認めるために働く」 社内マッサージルームのパラアスリート

“ちがいを ちからに 変える街。渋谷区”
その渋谷区の中で、障がいがありながらも、
仕事や家庭生活などのさまざまなステージで、日々真剣に生きている人たちがいる。
「MY LIFE,MY SHIBUYA」は、そんな人々の日常を描き出すノンフィクション。
今回は、東京2020パラリンピック競技大会「視覚障害者柔道」の若手有力選手、
石橋元気さんにご登場いただきました。
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社会人2年目。ふたつの顔

石橋元気さんには、ふたつの顔がある。

ひとつは、保険会社「あいおいニッセイ同和損保」に勤務する会社員としての顔。もうひとつは、2年後に迫った東京2020パラリンピック競技大会「視覚障害者柔道」の若手有力選手としての顔である。

会社員としての石橋さんは、入社2年目の新人として、日々奮闘中。あん摩マッサージ指圧師・鍼灸師の国家資格を持つ彼は、福利厚生の一環として同社内に設けられている「ヘルスキーパー」の職、すなわち”社内マッサージルーム”の施術担当社員である。

マッサージルームの設立準備段階である現在は、都内にある訓練所や社内会議室で一般患者や実習協力社員を施術しながら腕を磨いている。まだ駆け出しだが、担当した患者さんの症状に合わせて治療法を考え、施術し、「すごく楽になった」と言ってもらえることが嬉しくて仕方がない。自ら望んで進んだ道ではなかったが、この職業に就くきっかけをくれた両親に、今となっては心から感謝している。

「試合より緊張します」と、はにかむ石橋さん。
いまだ初々しさが見え隠れする
     

パラアスリートとしての石橋さんの舞台は、会社員のそれとは打って変わって道場になる。月曜日から金曜日までの午後、それから土曜日に練習をする。

道着を身にまとって畳に立つと、自然と気持ちが切り替わる。会社員としての石橋さんは小さな声で遠慮がちに話すのだが、組み合った相手を投げる際には自然と「やー!」という大声を発してしまうというから面白い。

企業に勤める社会人として、パラリンピックを目指す柔道家として、彼はとても充実した毎日を過ごしている。

小学校4年時に直面した「網膜色素変性症」

目の異変を”知らされた”のは、小学校1年生の時だった。

「ある日、担任の先生から『夕方の様子がおかしい』と言われました。黒板が見えなかったり、体育の授業で思うように動けないことがあったからだと思います。それがきっかけで両親と一緒に眼科に行ったところ、網膜色素変性症と診断されたんです」

「網膜色素変性症」とは、網膜内の視細胞が早く老化することで、光を感知できなくなってしまう病気である。多くの場合は遺伝性、先天性のもので、非常に遅いペースで進行する病気として知られている。しかし、治療法は確立されておらず、失明するケースもある。

もっとも、もの心つく前から”夜は見えにくい”ことが常態化していたから、先生の「様子がおかしい」という指摘には首をかしげるしかなかった。

石橋さんは、当時まだ、7歳の少年だった。病名を告げられてもその意味を理解することができなかったのも無理はない。おそらく両親だけが大きなショックを受け、その感情を我が子に悟られないように押し殺したに違いない。

「網膜色素変性症」は、年月をかけて
少しずつ視力が下がっていく進行性の病気である。
日が暮れると数センチ先の足元でさえ
はっきり見ることができない
     

この子は、いつか、目が見えなくなるかもしれない――。

現実に直面した両親が導き出したひとつの答えは、石橋さんに対して、失明の恐怖に負けないように精神力を鍛え上げることだった。

「診断を受けてから、両親の勧めで柔道を始めました。僕自身はあまり覚えていないんですけど、進行性の病気だから、完全に見えなくなった時に気持ちが折れないようにと(笑)。ただ、最初は道場に断られました。もし打ちどころが悪くて失明してしまったら責任を負えないからって。でも、自分も柔道をやっていた父は『仮にそうなったとしても、それはこの子の運命です』と答えたそうです」

いたって普通の生活を送っていた。友だちと学校に通い、”夜は見えにくい”が普通だったから通学にも支障はなかった。

ところが突然、目の病気を告げられ、その意味を理解することもできないまま道場に放り込まれた。初心者はひたすら受け身の練習。先生は怖い。楽しさを見出せないまま、泣きながら通った。8人のメンバーのうち5人が選抜される団体戦のメンバーにさえ選ばれなかった。

柔道で、何があっても折れない心をつくる


柔道の面白さを感じられなかったから、小学校4年時には野球への浮気心が芽生えた。

「でも、練習は夕方。照明もないから、まともに見えなくて。父には『それでもやりたい』と言いました。体験練習に行かせてもらったら、やっぱりうまくできなかった。だから父は、『やっぱりお前に野球は難しい』と」

そんなこと言ったら、もう何もできないじゃないか。なんとなく理解していたこととはいえ、改めて現実を突きつけられ、野球ができないことが悔しくて泣いた。病気のことを100%理解することはできないから、自分の未来を想像することもできない。ただずっと「目が悪い」と言われるばかりで、なぜそうなったのか理由もわからない。

夜の帰宅時、道端にカギを落とすと見つけることができなかった。一緒に歩いている友だちに「そこにあるよ」と言われても、探し当てることができなかった。暗いところで足がつまづいたり、目測を誤って田んぼに落ちたり、電柱にぶつかったり。

でも、そんなことは日常茶飯事で、恥ずかしいとは思っても心が傷つくことはなかった。なぜなら自分は友だちと一緒に学校に通っている、柔道をやっている、それで充分幸せなんじゃないかと気づき始めたからだ。

週1〜2日は練馬区の支援センターで、週3〜4日は会社内の会議室で
ヘルスキーパーのトレーニングを行う。
地元を離れ、一人暮らしをしながら
仕事と柔道で充実した日々を送る
     

中学に入ると、少しずつ柔道が楽しくなってきた。先生に怒られたくないからという一心で、とにかく1勝しようと目標を明確にした結果、少しずつ勝つためのコツをつかみ始めた。相手の身体の傾きへの対処法や技を仕掛けるタイミングを覚え、脳と身体が勝手に反応して「一本」を取れるようになった。全国大会に出場するようなエリートではなかったが、地区大会で3位になり、小さなメダルをもらえるような選手になった。

「その頃から、畳の上では自然と声が出るようになって。投げる瞬間に『やー!』と。試合がある日は、『この会場で自分が一番強い』と思うようにしているんです。そう思い始めてから、戦績が伸びるようになって」

何があっても、折れない心をつくる――。大きなリスクを背負って、それでも我が子を道場に送り込んだ両親の狙いは形になりつつあった。

全盲になるかもしれない恐怖

柔道で身体は強くなっても、心はまだ、強くならなかった。石橋さんの試練は続いた。

「本当の意味でこの病気と向き合うことになったのが、高校3年の進路相談でした。父親が、何の前触れもなくいきなり『盲学校に行かせる』と言い始めたんです」

高校生になっても、昼間であれば日常生活には不自由しない程度の視力は維持されていた。だから本人は、友だちと同じように普通に進学し、4年間の大学生活を楽しむつもりだった。しかし、その意見に父は頑に耳を傾けない。

ふざけんな――。

本人は「後で穴をふさぎました」と笑うが、自宅の壁にはその時の怒りを思い切りぶつけた”痕跡”があるという。

「あの時が一番つらかったですね。病気のことはわかってはいるけど、目は見えている。ほぼ普通の生活を送れている。それなのに、なぜ盲学校に行かなくてはならないのか、しかも、それを勝手に決められていることが納得できなくて」

とはいえ”何もやらない”わけにはいかなかった。だから入学式には「とりあえず」足を運び、格好だけつけてすぐに辞めようと思っていた。しかしその考えは、直後に改められた。

「入学式の時、隣の席に全盲の人がいたんです。その人は、ひとりでなんでもできる人でした。授業も一緒に受けて、記憶力が良くて、頭もいい。本当に、自分より何もかもすごくて。自分はまだ目が見えているので、『いつか全盲になるかもしれない』ということを頭では理解しているつもりでしたが、まったく目が見えない生活を想像することはできませんでした。全盲になったら、周りに助けてもらわないと何もできないような気がして、それはすごく惨めなことだと思っていたんです。ですが、その人に出会ったことで、障がいに対する偏見がなくなりました。何もできないと思い込んでいた自分のことが、恥ずかしくなったんです。救われました」

その時、初めて「全盲になるかもしれない恐怖」と向き合った。

あいおいニッセイ同和損保には
水泳やサッカー、バスケットボールなど、
石橋さんのように、仕事をしながらパラリンピックを目指す社員がいる。
競技は違えど目標はおなじ。
他の競技の応援に行くこともあるという
     

「それまでは、ほぼ普通の生活を送りながらも、『いつか全盲になる』という恐怖はどこかにありました。悲しかった。でも、盲学校で全盲の人とふれ合って、考え方が変わった。目が見えなくても、勉強もできる。私生活も頑張っている。まったく見えていない人があれだけ頑張っているのに、『全盲になったら終わりだ』なんて思ったら申し訳ない」

自分はまだ目が見えている。だから、完全に開き直れたわけじゃない。できればずっと見えていてほしいし、そうである可能性を信じたい。でも、盲学校に通ったことで腹が座った。心の準備が、少しずつできるようになった。

午前中はヘルスキーパー、午後は柔道家

心の準備ができるようになったことで、将来設計を考えるようになった。それもまた、盲学校に通ったことによる成果のひとつだった。

「盲学校では理療科というところで、あん摩マッサージ指圧師、鍼灸師の勉強をさせてもらいました。2年生になると実習があり、マッサージをして『楽になった』『来て良かった』と言われるたびに嬉しくて。その人に合った治療法を考えて、満足してもらえることに充実感を覚えました。この仕事で生きていきたいと思うようになりました」

生理学や解剖学、東洋医学を学び、勉強を重ねて国家試験に合格した。障がい者雇用の仲介を手がける視覚障がい柔道連盟の職員に紹介され、企業が福利厚生のために設置する「ヘルスキーパー」という職業があることを知った。「柔道も仕事も頑張れる」という言葉を受けて、その道が自分に合っていると素直に感じた。

「柔道も続けたかったけど、仕事もしたかった。だからすぐに面接を受けさせてもらいました。指が痛くなる? 確かに腱鞘炎になってしまう人もいるみたいですけど、柔道で鍛えられているから僕は大丈夫です。たまに、柔道で手を痛めて施術するのが大変なこともありますけど、仕事のために道場に行って見学することはありません(笑)」

午前中はヘルスキーパー。午後は柔道家。「サラリーマン」という実感はあまりないが、地元の福岡から出てきたばかりで気軽に話せる友人も多くはなく、「少し寂しい生活です」と照れ笑いを浮かべる。

パラリンピックのメダルが、人生の光

ヘルスキーパーとしては、社内マッサージルームの立ち上げに向けて士気を高めているところだ。

「身体を治すことだけじゃなく、その人が『また来たい』と思える場所にしたいし、『また治療してもらいたい』と思えるヘルスキーパーになりたいと思います。もちろん、時には愚痴も聞いたりしながら、忙しく働いている社員のみなさんの、身体だけでなく心も癒やされる場所にできたらいいかなと」

一方、柔道家としては、2年後を目指している。東京2020パラリンピック競技大会に出場して、表彰台に上がりたい。

「始めはイヤイヤやっていた柔道。柔道家として影が薄かった僕でも、必死に頑張った結果世界に挑戦できるところまで来た。でも、出場するだけじゃなく、メダルを狙いたい。今は危機感しかありません。もっと頑張らないと」

ヘルスキーパーと柔道家。この両輪をフル回転させてこそ、またひとつ”引っ掛かり”を解消することができる。それはおそらく、自身の心の中にある最後の引っ掛かりに自らトリガーを引くことである。

道場以外では、穏やかで物静かな性格の持ち主。
「たまに、やる気がないと勘違いされることもありますが
全然そんなことないですよ」と照れくさそうに話す
     

「ヘルスキーパーとして一人前になって、少しでも会社に貢献することができれば、社会人としての自分を自分で認められるようになる気がします。東京2020パラリンピック競技大会でメダルを取ることができれば、今までの悲しいことや苦しいことを、完全に消化することができる。僕はずっと、病気と真剣に一対一で向き合うための何かを探していて、たぶん、パラリンピックのメダルがそれなんじゃないかなって」

視力は弱く、視界は狭い。暗がりでは光を感知しずらくしづらく、色を識別するのが難しい。しかも、その症状は緩やかに進行している。

それでも、石橋さんの未来は決して暗くはない。ヘルスキーパーという仕事に挑戦し、柔道家としてメダル獲得に挑戦することの先にも、真っ直ぐ伸びる自分の歩むべき道がある。石橋さんには、それが”見えて”いる。

<プロフィール>
いしばし・げんき / 1996年生まれ、 福岡県出身。小学1年の時に視野が徐々に狭くなる先天性網膜色素変性症と診断される。小学2年生の時、両親の勧めで柔道場に入門。九州産業大学附属九州産業高校まで健常者とともに稽古に励む。その後、福岡高等視覚特別支援学校に入学し視覚障害者柔道を知り、初出場大会で優勝し本格的に競技を始める。2017年4月あいおいニッセイ同和損害保険株式会社に入社。

●主な戦績
2017年 第32回全日本視覚障害者柔道大会 73kg級 2位
IBSA柔道ワールドカップ (ウズベキスタン)73kg級 初戦敗退
2016年 第31回全日本視覚障害柔道大会 73kg級 4位
2015年 IBSAワールドゲームス(ハンガリー) 81kg級 ベスト20
2014年 第29回全日本視覚障害柔道大会 81kg級 1位

(制作:SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS,LLC / 文=細江克弥 / 写真=松本昇大)