FILE.1 粟野達人さん 東京都聴覚障害者連盟会長
「手話と体当たりで人生を“滑走”するたくましきデフスキーヤー」(後編)

“ちがいを ちからに 変える街。渋谷区”
その渋谷区の中で、障がいがありながらも、
仕事や家庭生活などの様々なステージで、日々真剣に生きている人たちがいる。
「MY LIFE,MY SHIBUYA」は、そんな人々の日常を描き出すノンフィクション。
第1回目は、感音性難聴のデフスキーヤー
東京都聴覚障害者連盟(*)会長の粟野達人さん(61)にご登場いただきました。
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前編はこちら

*東京都に在住する聴覚障がい者の生活・文化・教育の水準の向上を図るとともに、聴覚障がい者に対する理解を広め、一般社会への参加を促進することによって福祉の増進に寄与することを目的とし、1982年に設立された。聴覚障がい者の社会参加支援と非常時の支援活動拠点として渋谷区東1丁目に建設された東京聴覚障害者自立支援センター内に設置されている。

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スポーツでかなえる夢は、人生の希望そのものなんだ!

「実を言うと、それまで運動は得意ではなかったんです。でもスポーツの世界では、結果を出した人が一番になれる。耳が聴こえなくても、コミュニケーションができなくても、スポーツがあればみんなと仲良くなれる。そう確信できたことが、人生の転機になりました」

自ら望んで普通校(中学校)に入学、同校のマラソン大会で2位に入賞するという経験で自信を得た粟野さんは、高校も普通校を選び、様々なスポーツに挑戦するようになった。とくに「映画『女王陛下の007』の華麗なスキーアクションシーンに魅せられて始めた」というスキーには全力で取り組んだ。大学進学後は、体育会系のスキークラブに所属。様々なスキー大会に出場するなど、精力的に活動した。

しかし、試練は大学卒業後に再びやってきた。北関東の電子部品などを扱う企業に就職し、会社の寮で一人暮らしの生活が始まった。大学時代に打ち込んだスキーをする機会もなくなり、朝9時から工場でビス留めのライン作業に従事する毎日。きつい仕事だったが、それ以上に厳しかったのが、同僚たちとのコミュニケーションだ。

取材時には「通訳」として手話の担当の方が同席する。
粟野さんの想いを伝える重要な役目である。

「聴覚障がいはパッと見ではわかりにくいため、聴こえないこと、しゃべれないことをなかなか理解してもらえなかった。私が相手の口の形を読み取って返事すると『やっぱり聴こえてるんじゃないの?』と誤解されたり、面倒くさがって筆談をしてくれない人がいたり。昼休みのチャイムが鳴ったことを誰も教えてくれず、一人だけ作業を続けて昼ご飯を食べ損ねたことも何度もありました」

ほどなくして粟野さんは、父親の会社を手伝うため東京に戻ったが、相変わらずスキーの機会はなかった。そんな張り合いに欠ける日々の中、たまたま参加した苗場プロスキースクールの合宿で、彼は健常スキーヤーの大会で連続優勝しているという高齢の聴覚障がい者の存在を知る。

「年齢にも障がいにもひるむことなく、輝いている姿に感動を覚えました。こんなことで腐っている場合じゃない、自分にももっとできることがあるはずだ、と」

「障がい者が夢をかなえる姿を見るのが何よりの喜び」 と粟野さん

こうして粟野さんは、聴覚障がいのある仲間に声をかけ、東京にデフスキー(聴覚障害スキー)クラブを立ち上げる。30歳のときだ。メンバーには、彼と同じようにスキーを楽しむ場を求めていた仲間が100人以上集まり、様々な活動やイベントを行った。しかし、そんな粟野さんの前にまた新たな壁が立ちはだかった。

「デフスキークラブのメンバーの中には、プロ級の腕前を活かしてアルペンスキーの大会への出場を目指す人や、スキー指導員の資格を目指す人がたくさんいました。健常者の大会で実力が認められれば、国体やオリンピックへの出場にも道が開ける。そのためには全日本スキー連盟や東京都スキー連盟の公認が必要ですが、申請を両スキー連盟にあっさり断られてしまったのです」

障がい者スキーヤーには障がい者スキー連盟がある、というのがその理由だった。「まるで障がい者は障がい者同士だけででだけスポーツをしろ、と言っているのと同じだ」。粟野さんは理不尽な現実に、強い憤りを覚えたという。

「クラブの仲間には、私と同じようにスポーツに支えられてきたメンバーがたくさんいる。スポーツでかなえる夢は、人生の希望そのもの。だからこそ、この現実を何としても変えなければ、と奮い立ちました」

ついに混じりあう、健常者スキーとデフスキーの世界

粟野さんは聴覚障害者連盟や手話通訳の団体、全国の様々な関連団体にも支援を求め、スキー連盟や行政と粘り強く交渉を続けた。そんな努力が実を結び、ついに東京都スキー連盟の公認を得ることに成功。一定の条件のもと、スキー指導員の試験が受けられる体制も整った。それまで混じりあうことのなかった健常者スキーとデフスキーの世界が、互いに歩み寄った瞬間だった。

「そういう意味では、聴覚障がい者が健常者スキーの世界に挑戦できる足がかりを築くことができたといえるかもしれませんね」

苦境にあっても諦めず、後につづく仲間たちのために道を切り開いてきた粟野さん。長年、スキーをはじめとするデフスポーツの普及に尽力した経験を見込まれ、2007年に冬季デフリンピックの総監督に抜てき。そこで多数のメダルを獲得した手腕を買われ、その後10年間連続で夏季・冬季デフリンピックの総監督を務めている。今年7月に行われたトルコ大会では、過去最高となる27個のメダルを獲得(金メダル6個、銀メダル9個、銅メダル12個)し、話題を集めた。

「健常者の人たちには、相手が聴覚障がい者だからといって特別に意識することなく、外国人と会話をするくらいの気持ちで気軽に話しかけてきて欲しい。簡単な手話を覚えてもらえるとより会話が弾むことと思います」と粟野さん。

「障がいのある仲間たちが、夢をかなえる姿を見るのが何よりの喜び」と語る粟野さん。「聴覚に障がいがあっても、しっかりと情報を集め、サポートしてくれる人たちとつながることができれば、必ず夢はかなえられる。そのことをもっとたくさんの仲間に伝えていきたい」と力を込める。

「聴覚障がいは情報障がいでもあるんです。情報を得られる手段が限られるからこそ、正しい情報にアクセスする手段をしっかりと確保することが大事です」

そのためには、健常者の理解をもっと広げていく必要があると粟野さんは感じている。

「聴覚障がい者と出会ったら、英語しか話せない外国人とのコミュニケーションをイメージしてみてほしい。そんなとき、私たちは知っている単語を使って何とか対話しようとしますよね。それと同じように、聴覚障がい者とは手話を使って対話することができます。だから健常者の人たちには、ほんの少しでいいから手話を覚えてほしい。そういうささやかな思いやりこそが、障がいのある人々の世界を広げてくれる。そのことをぜひ多くの人に知ってもらいたいですね」

<プロフィール>
あわの・たつひと / 1956年生まれ。学生時代はスキークラブで役員および自身も選手として大会に出場。社会人になってからは全日本スキー連盟公認東京スキークラブや東京デフスノーボードクラブを創部。全日本ろうあ連盟スポーツ委員として、2013年の第22回夏季デフリンピック、15年の第18回冬季デフリンピックなどで日本選手団総監督を務める。現在、東京都聴覚障害者連盟会長などを務める。

(制作:SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS,LLC / 文=庄司里紗 / 写真=松本昇大)