FILE.1 粟野達人さん 東京都聴覚障害者連盟会長
「手話と体当たりで人生を“滑走”するたくましきデフスキーヤー」(前編)

“ちがいを ちからに 変える街。渋谷区”
その渋谷区の中で、障がいがありながらも、
仕事や家庭生活などの様々なステージで、日々真剣に生きている人たちがいる。
「MY LIFE,MY SHIBUYA」は、そんな人々の日常を描き出すノンフィクション。
第1回目は、感音性難聴のデフスキーヤー
東京都聴覚障害者連盟(*)会長の粟野達人さん(61)にご登場いただきました。
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*東京都に在住する聴覚障がい者の生活・文化・教育の水準の向上を図るとともに、聴覚障がい者に対する理解を広め、一般社会への参加を促進することによって福祉の増進に寄与することを目的とし、1982年に設立された。聴覚障がい者の社会参加支援と非常時の支援活動拠点として渋谷区東1丁目に建設された東京聴覚障害者自立支援センター内に設置されている。

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「自分は健常者の人たちとは違う」
そう気づいたのは、生まれて初めて普通校に通い始めた中学1年の春だった。
東京都聴覚障害者連盟で会長を務める粟野達人さん(61)は、当時をこう振り返る。

「そこは私が人生で初めて接した”耳が聞こえる人たちの世界”。それまで家族以外の健常者と知り合う機会がほとんどなかった私にとって、そこでの体験は衝撃的でした」

1956年(昭和31年)、東京都に生まれた粟野さんは、生後まもなく中耳炎を患い、その後遺症で聴力を失った。重度の感音性難聴のため、今でも両耳がほとんど聴こえない。彼にとって、音のない世界こそが「日常」であり「世の中」だった。3歳で都内の聾学校に入学し、9歳で千葉県に引っ越したあとは同県市川市内の筑波大付属聾学校(現・筑波大学附属聴覚特別支援学校)に通った。中学もそのまま聾学校に進む予定だったが、粟野さんはあえて普通校に進学する道を選ぶ。

「単純に、友達がたくさん欲しかったんです。聾学校は生徒が少なくて、私のクラスメートはたったの6人。一方、聾学校に隣接する公立中学校は、生徒数が900人を超すマンモス校で、とにかく楽しそうでした。それで親や周囲の心配を押し切って、中学はそこに通うことを決めたんです」

悔しくて悲しくて、泣きぬれた中学時代

ところが、普通校に通い始めてすぐ、粟野さんは様々なギャップに直面する。友達や先生の言っていることがわからない。授業についていけない。発声が苦手なため、言いたいことがうまく伝えられない。友達が欲しくてわざわざ選んだ学校だったはずなのに、友達はなかなかできなかった。日々もどかしさを抱える中、勘違いやトラブルによって「クラスメートとけんかになることもしょっちゅうだった」と粟野さんは言う。
「当時は昭和40年代ですから、聴覚障がい者に対する理解も今ほど進んでいない時代。差別的な表現やひどい言葉を投げかけてくる生徒も少なくありませんでした。悔しくて悲しくて、母校の聾学校に駆け込んで恩師に相談したことも一度や二度ではありません」

インタビュー中は、口も手も、絶えず動いていた。
「言葉にできないことを体全体で伝えたい」という粟野さんの熱量が、取材現場には充満していた。

それでも親には決して泣き言を言わず、学校に通い続けた。「子どもとはいえ、やっぱりプライドがありますからね」。粟野さんはそう言って笑う。
「私の通っていた中学は、耳が聴こえない生徒を受け入れたのが初めてだったんです。だから、もし私が問題を起こしたり聾学校に逃げ戻ったりすれば、“悪しき前例”として聴覚障がい者の受け入れを拒否する口実になりかねない。だから耐えました。私は『普通校に通いたい』と願う後輩たちの道を閉ざしたくなかったんです」
そんなある日、14歳になった粟野さんの人生を変えるような出来事が訪れる。学校のマラソン大会で、2位に入賞したのだ。上級生も含む全校生徒900人の中での快挙だった。すると、周囲の目が180度変わった。それまで距離のあったクラスメートたちが、次々と彼に「すごいね」と声をかけてきた。彼をからかっていた同級生たちも二度とばかにすることはなくなった。 

<プロフィール>
あわの・たつひと / 1956年生まれ。学生時代はスキークラブで役員および自身も選手として大会に出場。社会人になってからは全日本スキー連盟公認東京スキークラブや東京デフスノーボードクラブを創部。全日本ろうあ連盟スポーツ委員として、2013年の第22回夏季デフリンピック、15年の第18回冬季デフリンピックなどで日本選手団総監督を務める。現在、東京都聴覚障害者連盟会長などを務める。

(制作:SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS,LLC / 文=庄司里紗 / 写真=松本昇大)

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