FILE.6 田中知美さん 株式会社ローランズ代表補佐
「“全国の障がい者の心に花束を”
お花屋さんで働く指定難病のパワフルウーマン」(前編)

“ちがいを ちからに 変える街。渋谷区”
その渋谷区の中で、障がいがありながらも、
仕事や家庭生活などの様々なステージで、日々真剣に生きている人たちがいる。
「MY LIFE,MY SHIBUYA」は、そんな人々の日常を描き出すノンフィクション。
今回は、指定難病のネフローゼ症候群を患いながら、
障がい者の就労支援のために働く
田中知美さん(36)にご登場いただきました。
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「私にはネフローゼ症候群という腎臓病がありますが、人生を楽しんでいます」

田中知美さん個人のウェブサイトのトップページには、そんな一文が記されている。

彼女が患う微小変化型ネフローゼは、むくみ(浮腫)をはじめとするさまざまな全身症状が現れる腎臓の難病(※)だ。毎日欠かさず飲んでいるステロイドや免疫抑制薬を減量すると再発を繰り返すことが多い。

それでも彼女はフルタイムで働き、主催するネフローゼ症候群患者会の活動も精力的にこなす。休みが取れれば一人で海外へも出かけるし、アメリカ留学も経験した。長年生活を共にするパートナーもいる。

ウェブサイトの言葉通り、人生を思い切り楽しんでいる田中さん。その前向きさは、いったいどこから湧き出てくるのだろう?

「患者会の集まりに行くと、よく訊かれるんです。『どうしてそんなにポジティブなの?』と。自分の事はパワフルとかポジティブだなんて一切思っていないから、不思議なんですが、そう見えるなら、成功です(笑)。本当の理由はきっと、ネガティブなことばかり考えてグズグズしていた日々が長かったから。病気を嘆いて、一人で殻に閉じこもっていた数年間に蓄えられたパワーが、今の私の熱源になっている。そんな気がするんです」

25歳での発病。失われた日常


田中さんがネフローゼを発症したのは2008年。新卒で入った企業の営業担当としてバリバリ働いて、3年目を迎えた25歳の春のことだった。

「4月から異動することが決まって、3月の末に部署の仲間たちがお別れ会を開いてくれたんです。ところがその席で気分が悪くなり、大好きなお酒が一滴も飲めなかった。風邪かな? と思い、その日は早めに帰宅しました」

家族と暮らす自宅に戻ると、両足が見たこともないほどパンパンに腫れていた。体もひどく疲れている。知らぬ間に虫に刺されたかな? と。そんな娘の姿を見て、看護師の母親の顔色が変わった。「これ、腎臓だ。すぐ病院に行かないと……」


花屋さんとカフェが併設されたローランズ(LORANS)原宿店。
花に強く興味を持ったのは、入院中のお見舞いでもらったときから。
生きているからこその花や植物の日々の変化に希望をもらえる
     


母に言われるがまま、いくつかの病院を受診した。検査の結果、下された診断は「ネフローゼ症候群」。田中さんはすぐに大学病院に転院させられ、着の身着のままで即入院することになった。

「そのときは悲しいとか辛いとか、何も考える余裕がなかったですね。何しろ数日間、尿が一滴も出ない状態でしたから、体中に毒素が回ってものすごく苦しくて。レントゲン画像を見たら、素人目にも胸とお腹に水がパンパンに溜まっているのがわかるんですよ。激しい頭痛と全身の痛みに朦朧としながら、他人事っぽく、このままいったいどうなってしまうのだろう、と透析室で天井を見つめていました」

幸い医療陣の懸命の治療が奏功し、2ヶ月後には寛解(症状が落ち着いて安定した状態)と呼ばれる状態にまで快復した。しかし、体調が良くなったらなったで、今度は仕事や将来のことなど、次々と不安が押し寄せた。何よりも「何が悪かったんだろう、という思いに苦しめられた」と、田中さんは振り返る。

「私は勉強やスポーツ、部活に打ち込む元気な青春時代を過ごしました。病気らしい病気もしたことがなく、健康体だったのに、なぜ入院してるんだろう? 何が悪かったんだろう? そんな風に毎日、自問自答していました」

身体は病んでも心は病まず。母の存在

現実を受け入れられない田中さんは、退院して自宅に戻ると生活改善にのめり込んだ。規則正しい生活を徹底し、水分や塩分、タンパク質の摂取はミリグラム単位にまで気を使い、アルコールも断った。「医師からは『一生付き合う病気になるから根気が必要だよ』、と言われていましたが、信じていませんでした。病気だろうと何だろうと、きっちり健康管理して、努力すれば、絶対に治る」。そう信じていたからだ。

「ところが、退院後1ヵ月であっさり再発しちゃったんですよ。それで悟ったんです。人生には努力ではどうにもならないことがあるんだ、と。頑張るということ自体、間違えていました」

先天的な障がい者と後天的な障がい者では、己との向き合い方が異なる。
「健常」であった時期を体験している後天的な障がい者は、
障がい者となった自分を受け入れるまでに時間がかかることが多い。
田中さんも、現実を受け入れるまでに時間がかかった
     

それまでの彼女にとって、努力は必ず報われるものだった。スポーツも勉強も仕事も、頑張れば必ず結果がついてきた。だからこそ、努力が効かない病気が恨めしかった。夜眠りにつくと「目覚めたら病気が治っている」という夢を、繰り返し何度も見た。

20代半ば。同世代の友人たちの姿もまぶしく映った。彼女たちが口にする恋や仕事の相談は贅沢な悩みにしか聞こえなかった。心の中にはネガティブな思いが嵐のように吹き荒れ、どんどん卑屈になっていった。それでも優しく励ましてくれ、付き合ってくれる友人・知人に申し訳なかった。なんで前向きになれないのか、と。自分が心底嫌になった。

仕事に復帰できるほど体調が安定するまでには、結局2年もの歳月を必要とした。自宅で療養しながら、悶々とする日々。しかし田中さんは、心のどこかでほっとしている自分がいることにも気がついていた。

「病気になったおかげで、頑張り続ける人生からやっと降りられた、そう安堵している自分がいたんです。知らないうちに、すごく無理をして生きていたんでしょうね。そして、無理していたのは自分のためだけじゃなく、母のためでもあったということにも気がついたんです」

ローランズは、障がい者を積極雇用しているが、
障がい者だからといって特別扱いはしない。
障がいを持っていても、そうでなくても、同じ職場を構成する対等な仲間
みんなで日々コミュニケーションをとって、事業を盛り立てていこうという姿勢が強い
     

田中さんの母は、幼い頃に父親を亡くし、進学を諦め、若い時から看護師として働いている。苦労して育った経験から、娘の可能性を閉ざしたくないと、教育には人一倍熱心で、決して裕福とは言えない生活の中、何かに興味を持てば、習い事や塾通いを惜しみなくさせてくれた。母が体験できなかったことを体験して、その話をして喜ばせることが田中さんの一番の喜びだった。そして、知らず知らず、母の期待に応えようと頑張るようになっていったと当時の心境を分析する。

「だからこそ、病気がわかったとき、母は私以上に辛そうでした。看護師なのに娘の病気に気づけなかった、私が無理をさせてきたせいだ、と自分を責めていましたね。自分の勤める病院で働いた後に、夜は私の病室で看病してくれて。病気の私に寄り添って『もう無理しなくていいよ』と。それから母は、娘の人生に干渉しなくなりました。今では母も私も、お互いに好きなことを自分のためにやっています。でも、今、私が病気を持ちながらも働き続ける原動力は母なんです。小さな頃から、母や祖母の働く姿を見てきた。当時は女の人がバリバリ働くことは珍しくて。かっこよかったし、今なお第一線で働き続ける母を尊敬しています」

「だから私はチャレンジする」

田中さんは、2010年に復職。体調を考え、営業ではなく経営戦略を担う事業企画本部に配属された。難病を抱える身とはいえ、復職した以上は成果を出したいが無理は出来ない。だからこそ、以前よりももっと効率的に働くように心がけた。

「つい発病前の調子で頑張りすぎて体調を崩すこともありましたが、上司や同僚たちがいつもお互い様だよって気遣ってくれました。そういう環境だったから、病気があっても仕事を続けられたし、働くことで病気のことを忘れられた。それが何よりもありがたかったですね」

しかし、病気は完治したわけではない。免疫抑制剤やステロイドで寛解という状態に抑えているだけだ。実際、復職を果たしてからも、薬を減らす過程で何度も病気が再発し、入院を余儀なくされた。発病から5年。終わりの見えない病気との闘いに、心身ともに疲れ果てていた。

「2015年の秋に再発したとき、ふと『残りの人生で、あと何回入院すればいいんだろう』、『いつまで薬を飲み続ければいいんだろう』と思ったんです。そうしたら、病気が悪化するとまずいからここまでにセーブしておこう、とか、人生そのものにセーブをかけていくような生き方になっていたことに気づいて、心底嫌になった。病気に人生や夢まで奪われたくない。ならば、これまで諦めていたことにどんどんチャレンジしよう。そう決意しました」

パーキンソン病患者や脳梗塞患者、心臓にペースメーカーを入れている人など、
ぱっと見ただけでは「障がい者」だと認識できない人は多い。
一見健常者のようであるが、配慮や援助が必要な障がい者は
この「ヘルプマーク」を付けている。
まだまだ認知率が低く、その「効果」を実感できない障がい者は多い。
都営地下鉄の駅などで入手できる
     

そんなとき、人材企業主催の女性向け奨学金留学プログラムに関するWEBサイトが、たまたまネットサーフィンをしていた田中さんの目に留まった。もともと海外志向が強く、発病後も医師に相談しながらさまざまな国を一人旅した経験もある。田中さんは、さっそく病院のベッドから応募書類を送った。

「難病や障がいを抱えていても、仕事があればそのことを忘れられる。社会に必要とされている実感が、生きる活力につながる。私自身、働くことで癒され、救われてきたからわかるんです。私の場合で言えば、『仕事が病気を治す』んじゃないかと。でも日本の現状を見渡すと、障がい者や難病患者の就労環境はまだまだ不十分。だからその分野で先を行くアメリカの事例を研究したいと思ったんです」

結果は、見事合格。わずか10名の応募枠を勝ち取った田中さんは、留学のため10年間勤めた職場を離れることに決めた。2016年5月、これまでの生き方を変える大きな決断だった。  (後編に続く

※:難病とは、発病の機構が明らかでなく、治療法が確立していない、希少な病気であって、長期の療養を必要とするもの。指定難病とは、難病の中でも医療対象の助成になっている331疾病(平成30年4月現在)を指す。もちろん指定難病に入っていない難病も存在する。

<プロフィール>
たなか・ともみ / 1981年生まれ、千葉県印西市出身。慶應義塾大学を卒業後、大日本印刷株式会社で働いていた2008年、腎臓の難病であるネフローゼ症候群と診断される。2年間の休職を経て復職、事業企画本部で経営戦略に携わる。16年に退職後は、ネフローゼ症候群患者会の立ち上げやアメリカ留学などを経験。その後、株式会社ローランズで難病や障害を抱える仲間の就労支援に携わった。渋谷とは、開校初期にシブヤ大学でボランティアスタッフをしていた頃からの付き合い。

(制作:SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS,LLC / 文=庄司里紗 / 写真=松本昇大)